永遠に記憶に残るファッションデザイナー、アレキサンダー ∙ マックイーンの物語

ALEXANDER McQUEEN

2010年にうつ病で我々の前から姿を消したアレキサンダー・マックイーン(Alexander McQueen)。 彼は世を去る前、業界で最も尊敬されるデザイナーであったと同時に、多くの議論を呼び起こした人物でもありました。 彼が生きた人生の物語と、90年代半ばに得た栄光については、数多くのマガジンと書籍、そしてドキュメンタリーなどで扱われ、彼のブランドはサラバートンのディレクティングの下、多くの人々の心を魅了してきました。 

彼はロンドンのイーストエンドの労働者階級で生まれ、タクシー運転手の父と共に学生時代を過ごしました。 サヴィロでインターン時代を送り、セントラル・セント・マーティンで卒業ショーを披露する前までは、同性愛者だという理由で同級生たちから好奇の目を向けられることもありました。

ファッションデザイナーとして生まれ変わった後には、性、暴力、宗教に関する物語はもちろん、芸術、自然、映画、音楽、文化に関する様々なテーマをコレクションを通じて私たちに見せてくれました。 しかし、彼の道のりも最初から順調というわけではありませんでした。 まず、金銭的な問題が一番大きいものでした。 しかし、彼は資金難にもかかわらず、1995年秋冬シーズンに披露した「HIGHLANDRAPE」コレクションで、評論家はもちろん大衆に強いインパクトを与え、ジバンシーのクリエイティブディレクターにも任命されるなど、完全に自分の実力だけで資金難を克服しました。 今回のコンテンツでは、アレキサンダーマックイーンという人物がどのようなものからインスピレーションを受けたのか、そしてそれに関する様々な物語が収録されています。その中でも、彼が最も注目を集めた時期でもあった1997年秋・冬シーズンにフォーカスしました。

 



THE LOCATION

アレクサンダー・マックイーンがショーを披露した中で最も印象的だった場所はどこでしょうか。 おそらく多くの人が1997年2月に発表した秋冬コレクションを挙げるでしょう。 ロンドンのファッションウィークのフィナーレを飾ったこともあるこのショーは、ほとんどのショーが行われた昼または午後の時間帯のサウスケンジントンではなく、夕方のボロマーケットで開かれ、荒廃したイメージだったその不気味な雰囲気は、彼のアバンギャルドなルックを見せるには最適の場所となりました。

THE SET

このショーの美術監督だったサイモン・コスティンは、これまでアレクサンダー・マックイーンが見せてくれたコレクションから得た様々なインスピレーションを自分のムードボードに記録しました。 あるアイデアでは、マックイーンとコミュニケーションをとりながら、コレクションピースのデザインに自分の意図を盛り込んだりもしました。 ショーを行うロケーションの壁にはアーサー·ペン監督の1967年の作品である『私たちに明日はない』の銃撃戦からインスピレーションを受けたディテールで埋めつくし、古くてさびついた車を周辺に配置して芸術的な雰囲気を演出したりもしました。 ランウェイを演出する上で最も重要といえる照明パートには、マックイーンが直接介入し、彼自身の好きな作品である『ブルックリンへの最後の非常口』の雰囲気を思わせる赤が使用されました。 この赤い光は、ショーが終わる頃にはだんだん日が沈み辺りは色あせ、暗く脅威的な雰囲気を醸し出すのに大きな役割を果たしました。


THE AUDIENCE

当時、ソーシャルメディアがそれほど盛んではなかったにもかかわらず、アレキサンダーマックイーンのショーはファッションに関心のある人なら必ず観るべきイベントだと認識されていました。 多くの人々は彼のショーを見たいがために、外から中に入ろうとガードマンたちに大声を出したり、激しいもみ合いになったりもするほどでした。 当時の若い男女は、チケットを持たずバリケードを突破し、VIP席を無断で占拠するといった事態も起きるほどでした。彼のショーは、そのあまりの人気と熱狂により、穏やかなものではありませんでした。 ショーの開始が延期されると、関係者たちが観客にテキーラを回し、そこかしこでタバコの煙がもくもくと立ち上りました。 それが、アレキサンダー・マックイーンショーならではの光景でした。はなはだ自由な雰囲気ですね。 勿論、今は簡単に見られる絵ではなく、 数多くの観客の激しい反感を買うことでしょう。

THE DISASTERS

それでは、コレクション時、アレキサンダー・マックイーンを最も苦しめたトラブルとは何だったでしょうか。 イタリアで作られた婦人服のサンプルがロンドンに到着しましたが、ショーが始まる48時間前に、ヒースロー空港の税関で捕まり足止めされた事件を真っ先に思い起こします。 当時ショーのスタイリストだったケイティ・イングランドは、その問題を解決するため、未明に空港に向かわなければならず、さらに、ランウェイに上がる予定だったナオミ・キャンベルは遅刻し、ショーに支障をきたしました。 結局マックイーンは彼女をその舞台に立たせることはありませんでした。 更には、観客のために設置されたストーブを誰かが誤って倒し、舞台の後方から炎が上がりました。 それを見た他の観客はこれを演出の一部だと思いました。 なぜなら、炎が激しくなっている間にもマックイーンはショーを止めずモデルを送り続けたからです。 結局、制作陣の一人が消火器を手に火を消し、観客らは酒に酔ったのか薬に酔ったのか、この様子を見て歓声を上げていた....といった事もありました。。

THE LOOKS

アレキサンダーマックイーン最高のショーの一つと評価される1997年秋冬コレクションである"IT'S A JUNGLE OUT THERE"は、ドレスの形で作られたコートから高い肩が特徴のテーラードジャケットに至るまですべてブラック、グリーン、ブラウンカラーのレザーとして生まれ、スエード、ストライプ、ウール、ビニール、デニムなど、様々な素材で作られました。 いくつかのデザインはモデルたちに角やワニの頭を形象化したマスクを被せて若干グロテスクなイメージを漂わせるように意図しました。 メイクアップはまるでミュージカル、キャッツを思い起こさせました。 これらがすべて合わさって完璧なショーを成功させた彼は、フィナーレで誇らしげに手を振りながら登場しました。 また、100ものルックでロゴプレイがどこにもなかったことも興味深いところです。 この部分では、トレンドを追うのではなく、より新しいものに果敢に挑んだ時代であることが分かります。 商業性に対するビジョンを広げるより自己表現により集中し、その結果、財政的なリスクは甘んじて受けることとなりました。

THE VERDICT

アレキサンダー・マックイーンは、自己を思いのままに表現しようと、ファッション評論家から称された人物の一人です。 ニューヨークタイムズのエイミー·スピンドラーは、彼について「ファッションの犠牲者にならないという固い意志を持った人物」と評価し、ジバンシーでの任期を控えた時点では「自分の才能とアイデア、そして技術的な面で他の追従を許さない実力を見せた彼は、ジバンシーで無条件に生き残るでしょう」とも語った。 インディペンデントのアレックス・フューリーは、「どこかで見たような構成や富の象徴に立ち向かい、芸術的なインスピレーションや政治的メッセージで後のデザイナーたちに多大な影響を与えた人物」として、彼の業績を称えました。 このように彼の持っていた才能に関して論ずる時、議論の余地もないほど、いつも最後には彼を称讃することしかできませんでした。 彼は確かにショーをいかに魅せるべきかという方法を明確に知っていたデザイナーでした。 彼は当時、ショーを終えた後のタイムとのインタビューで「ショーの成功を祝うカクテルパーティーは望んでいません。 私は観客が私のショーを見るのをやめて、嘔吐する姿が見たい。 私は極端な反応が欲しい人間です。 精神が崩壊し倒れる人々のために救急車を待機させておきたい。 それだけ私は人間の感情を揺さぶりたいデザイナーです」と特有の無愛想な表情で語った。 真に芸術を望んだ彼の意図を最もよく感じられるコメントでした」


Source
vogue runway

Idnfashion
@mcqueen_vault